由緒

1、祭神

日本武尊命

1、由緒

当八劔神社は国内神名帳に従五位上八劔天神坐宝飯郡とある。
古社にして尾張国愛知郡熱田の宮に鎮りませる神霊を勧請移座せる深き由緒を有す。当社は古来三谷郷産土の神として尊崇の中心たるのみならず、又武神として世々の武将を始め一般の崇敬を蒐む。

寛治3年(西暦1089年)の創建と伝えられ、一時期は荒廃していたものを建久元年(西暦1190年)源頼朝の命を受け安達藤九郎盛長は奉行となりて社殿の造営に任した。

徳川家康は天文16年駿河への途次、及び天正十年浜松への帰途、特に当社に参拝して武運長久の祈願を籠めたりと伝ふ。

慶長五年領主より社領の寄進あり。爾後各領主亦之に倣ひ以て明治維新に及へり。三河二葉松に三谷村八劔大明神社領六石六斗四升六合とあるのは是なり。

明治17年8月12日社格を附せられて郷社に列せられる。往昔は廣袤四町四面の神域を有せしが戦国の乱世に及び縮狭せられて、今は森と称する地名に纔に其の名残を留むるに過ぎず。然共尚1800有余坪の境内には老松鬱蒼として社殿を囲繞し古を偲ふに足るものあり。

境内神社として源太夫神社天満社・諏訪神社・稲荷神社・御鍬神社・秋葉神社・尺地神社・水神社・金毘羅神社の九社を存す。

1、例祭

陰暦九月九日 俗に三谷祭と称す。

八劔神社の栞

ご祭神の物語

オオウスノミコトとオウスノミコト

第十二代景行天皇にはおおぜいの子供たちがいたが、その中に腹違いのオオウスノミコト(大碓命)とオウスノミコト(小碓命)という兄弟がいた。ある日、天皇はエヒメ(兄比売)とオトヒメ(弟比売)という絶世の美女姉妹のうわさを聞き、オオウスを使いに出してこの二人を召し出させた。ところがオオウスはこの二人が惜しくなり、天皇には身代わりを差し出して自分のものとした。

天皇は事態をすぐに見抜き、弟のオウスに、兄に対して礼節を守ように教えよと言った。すると、オウスは兄の手足をもぎ取って捨ててしまった。天皇は驚き、オウスを恐れて遠ざけようと思い、抵抗勢力である西方のクマソタケル(熊曾建)の成敗を命じた。オウスは、伊勢神宮の斎宮を務めるおばのヤマトヒメノミコト(倭姫命)に暇乞いし、衣と剣をもらって旅だった。

クマソタケルとイズモタケルの服従

九州のクマソタケルの館では、軍勢が三重に囲んで室の完成を祝っていた。オウスは少女のように髪をくしけずり、叔母からもらった衣を身につけて少女たちに紛れて酒宴の席に紛れ込んだ。クマソタケル兄弟に呼ばれてそばに行ったとき、オウスは剣で兄を突き刺した。弟を突き刺したとき、オウスが身分を明かすと、虫の息の弟はオウスにタケルの名を献上し、それ以後オウスはヤマトタケルノミコト(日本武尊)と名乗るようになった。

大和に帰る途中、やはりイズモタケル(出雲建)という抵抗勢力のいる出雲に立ち寄り、イズモタケルに近づいた。そして沐浴に誘って自分が先に陸に上がり、イズモタケルの大刀を木刀に代えておいた。その上で剣術の試合を申し込み、刀が抜けないと焦るイズモタケルを斬り倒した。こうして朝廷への反抗者を服従させ、都へ帰って天皇に成果を報告した。

東国征伐

だが、彼を待ち受けていたのは天皇の冷たい仕打ちだった。ねぎらいの言葉もなく、天皇は東方十二か国を征討してくるようにヤマトタケルに命じた。ヤマトタケルは伊勢神宮にヤマトヒメを訪ね、涙を流した。ヤマトヒメはその悲しみを黙って受け止め、ヤマトタケルに三種の神器の一つである草薙の剣と袋を授けた。

ヤマトタケルは伊勢を出て東に向かい、尾張国造の先祖であるミヤスヒメ(宮簀媛)の館に宿泊した。二人は一目見て愛し合ったが、ヤマトタケルには東征の使命がある。使命を果たしてこの地に戻り、結婚しようと誓い合った。

ヤマトタケルは駿河の国に入った。ここの国造はヤマトタケルを欺き、広野に連れ出して火を放った。ヤマトヒメからもらった袋には火打ち石が入っていた。ヤマトタケルが草薙の剣であたりの草を払い、火打ち石で迎え火をつけると、火は燃え寄せる火を追い戻した。広野を脱出したヤマトタケルは国造たちを斬り殺し、死体を焼き払った。そのためこの地を焼津と呼ぶという。

ヤマトタケルは、鎌倉・逗子を経て三浦半島から走水(浦賀水道)に漕ぎ出た。旅の途中、ヤマトタケルはオトタチバナヒメ(弟橘比売命)という美しい女性と結ばれ、ともに東征していた。悲劇は二人が船で走水の海に漕ぎ出した時に訪れた。海峡の神が怒り、波を逆立てて船を翻弄したのである。

船が沈みかけたとき、オトタチバナヒメは舳先に進み出、神に祈って海に身を投げた。すると海は急に静まり、船が進み出した。ヤマトタケルは悲しみを胸に東征を続け目的を完遂した。

帰路、足柄山にさしかかったとき、ヤマトタケルはオトタチバナヒメを思い出して三度ため息をついた。そして「ああ、わが妻よ」と言ったので、以後その地から東を吾妻(東)と呼ぶようになった。

ヤマトタケルの最期

ヤマトタケルは足柄山から甲斐(山梨県)に入り信濃の国(長野県)を経て尾張の国(愛知県)に戻った。そして約束どおりミヤスヒメと結婚した。

ヤマトタケルはミヤスヒメのもとに草薙の剣を預け、伊吹山の荒ぶる神を退治しに出かけた。山のふもとで神が化身したイノシシと会ったとき、神の使いだろうと思って帰りに殺そうとなめてかかった。それが神の怒りを買い、神は雹を降らせてヤマトタケルの体を弱らせた。

ヤマトタケルはやっとのことで山を下り、三重県のあたりまで杖にすがったりはうようにして前に進んだ。能褒野(三重県鈴鹿市加佐登町付近)にたどり着いたとき、容体は急変した。ヤマトタケルは「草薙の剣よ」と言って息を引き取った。

この知らせを聞いたヤマトタケルの親族たちは、みな都から駆けつけ、御陵を造り、遺体を葬って悲しんだ。その時、ヤマトタケルの魂は大きな白鳥となり、空高く舞い上がり海の方に飛び去った。

みんなが白鳥を追いかけた。白鳥は伊勢の国を飛び立って河内の国の志幾(大阪府八尾市)に降り立った。人々はそこに御陵を造り、御魂を鎮座させた。其れを白鳥御陵という。しかし白鳥はまたそこから舞い上がり、天空の彼方へと飛び去ってしまったという。

縄文巨石と日本武尊の三谷昔ばなし

三谷の郷は「雄大な景観の素晴らしいところ」「天地自然の景色の素晴らしいところ」「花鳥風月の素晴らしいところ」。郷の東北に古来より山全体を神として崇められている砥神山があり、この一帯は豊かな自然に恵まれ緑の木々に覆われている。

古の人々は神霊の力をあずかるために巨木や巨石を神の「依代」とし信仰したが、三谷の郷の人々も砥神山の巨石を神の依代とした。

しばらく砥神山を登ると八劔神社の奥の院があり、二つに割れた大きな巨石がある。三谷の郷の古くからの言い伝えによるとヤマトタケルが能褒野(三重県鈴鹿市)にて罷り去るとき「倭は国のまほろばたたなずく青垣山隠れる倭しうるはし」と詠まれた。

その時、三谷の山々にはそれは恐ろしい雷が鳴りわたり、稲妻が幾度となく砥神山に落ちた。鳴りわたった後に村人が見たものは巨岩が二つに大きく割れた姿であった。村人は「これは日本武尊の霊」と叫び悲しんだ。